デンマーク 1996
監督、脚本 ラース・フォン・トリアー



職場で事故に遭い、首から下が全身麻痺状態に陥った夫と、その妻の愛の行方を描いた作品。

ああ、トリアーはすでにこの頃から無私なる献身というか、自己犠牲の果てにたどり着く聖性みたいなものに囚われてたんだなあ、となんとなく思いました。

まあ、伝えたかった事はわかる。

教条的で意固地なプロテスタントの教えに縛られる村で、本当の愛をその身をもって表現したのは、1人のはみだしもの扱いされていた女であった、といったところかと。

痛烈な宗教批判であり、真なる愛に対するひとつの答え、という解釈がおそらくは正しいんでしょう。

私も若い頃にこの映画を見たときは震えましたしね。

ただ、年月が経ち目が肥えてくると、当時なんとなく見逃していたあれこれがひっかかってきたりもするわけで。

今回じっくり見直してみて、まず私が一番納得いかなかったのは寝たきりの旦那の言質ですね。

旦那、「俺はもうお前を抱いてやることができないから、お前は他の男と寝ろ」と妻に強要するんです。

これ、婉曲的に、俺のことはもう忘れて違う男と幸せな人生を歩め、と思いやりから発言してるのだと考えることはもちろんできる。

でもね、よくわからないのは、寝た時の様子を全部自分に報告しろ、と旦那が付け加えてることなんですね。

本人が言うには、様子を聞くことで、お前との情事を追体験したいんだ、ってことらしいんですが、まあ、相当屈折してますわな。

回復しそうな兆しがない自分の体に業を煮やし、情緒不安定気味になってるのか?と、私は思った。

で、問題なのは、そんな滅茶苦茶な要求をですね、心身耗弱気味な妻に押し付けてること。

男の妻、過去精神病院に入院していたこともあるぐらい不安定な女性なんですね。

統合失調症ってほどではないんですが、私が見た感じでは多動性注意欠陥障害っぽい。

そのせいかどうかはわからないんですが、病的なまでに旦那に依存してるんですね、妻は。

そんな女性に姦通の罪を犯せ、って、これ、一歩間違えたら大変なことになるぞ、と。

まともな精神状態で次々と男を渡り歩くなんて、できるとは到底思えない。

また、それができたとしても、最終的になにか良い結果に結びつくはずもないのはわかりきってる。

たとえ縁を断ち切るための荒療治だったとしても、方法論が無茶苦茶すぎますよね。

でも妻はそうすることが夫を救うことになる、と盲目的に信じて売春婦さながらの格好で街をうろつき始めるんです。

もう、痛々しくて見てられない。

案の定、妻、最後には手酷い目にあって、病院にかつぎこまれる羽目になるんですが、私がなによりイラッときたのはその一連のシークエンスを監督が「美しい行為」であるかのように描いてることなんですね。

いやこれ献身だとか、自己犠牲だとか以前に、妻の思いを利用した旦那の洗脳じゃねえか、と私は思うわけです。

本当に妻のことを思いやるのなら、旦那よ、まずお前が先に舌噛みきってさっさと死ね、っちゅー話であって。

悪辣なこと書いてますけどね、全身不随だから何を言っても何をやっても許される、ってわけじゃないと思うんですよ。

それほどまでに旦那の言動はあまりに罪深い。

そもそもね、なぜそんなわけのわからん儀式みたいなプロセスを経て、夫婦の愛の深さなり、別離なりを演出せねばならんのか、そこが私には理解できなくて。

で、肝心のエンディング。

これがまたもう、ほんとにひどくて。

詳しくは書けないんですが、一片の後悔もなく、妻よ、ありがとうって、旦那、お前は鬼畜か、と。

だれかこいつをぶん殴れ、と私はマジで思った。

ラストシーンも個人的には正気と思えないですね。

奇跡的に良い方向に転がったから、大博打を打ったことがすべて全肯定されるなんてどう考えてもおかしい、と思う次第。

一見薄弱で愚昧にみえるものの中にこそ聖なるものが宿る、とでも言いたかったんでしょうが、そんなものは宗教以上に宗教的だとあたしゃ言いたい。

ハンデだとか他者との違いに見いだせるから純真なのではなく、普遍性の中に気づけば存在してるからこそ純真なんです。

監督はいったい何に酔いしれてんだ?というのが私の総評。

やっぱりトリアーはなんか私には合わないですね。

まあ今や世界的な大監督ですし、揺るがぬ評価も周知のところかと思うんで、私の批判の方がよっぽどどうかしてる、って感じなのかもしれませんが。

とりあえず、他の作品をあと1本だけ見て、もう一度この人の内奥をさぐってみよう、と思ってます。





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